平成24年3月定例議会一般質問
1.行財政改革について
2.公民意識と地域コミュニティについて
<以下原文>
私は通告してあります2項目について質問いたします。
1項目目、行財政改革についてです。
1点目は市が保有している土地、いわゆる市有地ですが、市有地は本来なら目的を持って保有しているはずの土地です。そして、市有地は市民の大きな財産であって、市民に利益が還元されなければなりません。
ところが現在の市有地の状況は、計画・目的が頓挫したり、目的達成が遠いものだったり、強いて言えば塩漬け状態、遊休状態になっている土地が、市民の利益どころか土地管理経費や利子補填等の不利益になっています。
ですので市有地を価値あるものとして市民に還元するべく質問と提言をいたします。
まず市有地の市としてのビジョン、土地利用計画は絶対に必要です。場所ごとに検討し具体的に計画を立て有効利用、もしくは処分してゆくべきです。
計画を立てる上で考慮することとしては、もちろん住宅用地として販売も当然ですが、人口減少の状況の中で売り切れないと思われますし、より価値的に活用することが望ましいことです。例えば市民出資のソーラー発電所や市民農場とか、県北地域には見当たらない全面芝貼りのグランドも魅力的ではないでしょうか。そうした観点も大事だと思います。見解を伺います。
それからその計画立案から計画実施に進むまで、市有地を遊ばせているのも経費が嵩むだけで、非常にもったいないと思います。ですので、それまでの期間、無償で市民に貸し出して、有効活用してもらいながら、草刈り等の管理は借り手市民にやってもらうようにすれば、市有地の管理経費が浮くと同時に市民の利益になると思います。この市民への貸し出しは、借り手の権利の発生や付随インフラの必要性が出てくるなどの問題も考えられますので、条例化が欠かせないと思いますが、見解を伺います。
行財政改革2点目の質問は、自治体クラウドについてです。
この自治体クラウドについては、3.11大震災の経験から、自治体の持っているデータのバックアップを考えなければならないとの経緯で、全国的に自治体クラウドというシステムが注目されています。
現在高萩市のデータのバックアップは委託業者に任せておりますが、その安全性や経費の見直し検討は必要かと思います。そしてこの問題は、県を始め他自治体も同様に取り組むべき問題になっているはずですから、他近隣自治体と共同でシステム構築することで経費削減やフォーマットの共有化などが進むように思います。
クラウドの構築は以前にも話題になりましたが、いま、高萩の庁舎を新たに造るときに、庁内LANシステムをどう考えるかという問題でもあります。クラウドに移行するなら今ではないでしょうか?見解を伺います。
行財政改革3点目のPPSの活用について質問いたします。
PPSとは「特定規模電気事業者PowerProducer&Supplier」のことですが、東電などの大手電気事業者の独占的事業となっていた電力供給事業を、規制緩和により新規参入してきた事業者から電気が買えるようになったものです。電気売買の独占状態から電気価格の競争が始まったということです。つまり電気を買う側の状況により電気料を削減できるシステムになります。
そして震災以後、東電の電力への不信感が高まると同時に、電気料の値上げがささやかれたり、原発の稼働が見込めない現在、このPPSが非常に注目されております。高萩市もこの話題のPPSの導入について、その効果等について検証し検討するべきと思いますが、見解を伺います。
行財政改革4点目のゴミ処理経費削減について質問いたします。
4月からリサイクルセンターが稼働するわけですが、市民はリサイクルセンターという名前から、これからはどんどんリサイクルが進み、ゴミ処理経費が少なくなってくるものと推測してると思います。さて実状はどうでしょうか?予算書ベースでは確かに再生資源売り払い額は増えていますが、ゴミ処理経費はその額を上回り増えています。ゴミ処理経費は社会情勢により変動しますので、一概には判断できませんが、できれば削減し、その分の予算を他に回したいと思うわけです。やはり以前から提言し続けて来ましたが、ゴミの絶対量を減らす以外に道はないと、改めて強く申し上げたいと思います。
ゴミ処理経費のうち約6割が可燃ゴミ処理経費であります。可燃ゴミのうち重量比で約7割が生ゴミであります。つまりゴミ処理経費のうち約4割強が生ゴミ処理経費ということです。おおむね1億6千万円を生ゴミ処理にかけている計算です。いかに大金をかけているかということです。
生ゴミを無くすのは不可能だと思いますが、処理経費の単位基準である重量を減らすことは可能です。
各家庭で堆肥化など自家処理してもらうのは理想的で、焼却経費だけではなく運搬経費も0になります。生ゴミとして出す場合でも、生ゴミの90%以上は水分ですから、例えば水切りをきっちり行えば15%ぐらい軽くなりますし、生ゴミを1日天日干しすると、重さは約半分近くになります。
さらに段ボールコンポストなどで発酵させて乾燥させてから可燃ゴミとして出せば、堆肥として使わなくても、生ゴミの重量は限りなく0に近づきます。
生ゴミはゴミとして出す前に何らかの前処理を行えば、確実に減らせるのです。市民全世帯がやらなければならないということではなくて、例えば意識を持ってやれる人がやるようにして、生ゴミ重量を10%減らせれば、理論的には生ゴミ処理費が10%削減できます。金額にして1600万円です。1600万円を少ないと見るか大きいと見るかは経営センスの以外の何者でもありません。
こうした生ゴミの自家処理や前処理を1件でも多くの家庭で実践できるように、啓蒙推進の大きなチャンスがリサイクルセンターの開設にあると思います。
高萩市は焼却施設を造らずに、リサイクルセンターをゴミ処理の象徴的方向性として位置づけ完成させました。これからが重要です。3月に竣工するリサイクルセンターには研修室機能を備えた多目的ルームがあります。そこをゴミ減量化プロジェクト推進拠点に位置づけ、例えば、ゴミ減量化研修会や情報交換の場として活用しながら、生ゴミ自家処理コンテストを開催するなど、これからのゴミ処理行政の中核的拠点にできると思いますが、見解を伺います。
次に2項目目の公民意識と地域コミュニティについて質問いたします。
1点目は、まず始めに「潮」という月刊誌3月号に、「「公民意識」をもつ人々が日本を変える」と題して、内田樹(うちだたつる)氏の寄稿文から一部を紹介し、質問したいと思います。
内田氏は、
「国家は堅牢であり、盤石である。踏んでも蹴ってもびくともしない」という楽観に安んじている人々は、自然災害のときも、年金・医療・教育のような制度上の問題についても、「なんとかしろ」と言うだけで、自分の身体を動かそうとはしない。
この「クレーマー」たちは自分では公民意識が高く、制度を批判することで公民的義務を果たしていると信じているのかも知れないが、私は「クレーマー」を公民とは認めない。公民とは「文句を言う」人ではなく、「身銭を切る人」だからである。
公民意識の前提にあるのは「共同体はもろい」という認識である。私たちが現に享受している諸制度ははじめからそこにあったものではない。先人たちが文字通り血を流して基礎づけたものである。それは信じられているほど堅牢なものではない。今も誰かが身銭を切り、自分の割り前分の仕事だけではなく、それを超えるオーバーアチーブ(期待以上の結果)を果たすことなしには維持することの困難なものである。
共同体はもろく、つねに支えを求めている。共同体の保持のためには、自己利益の追求よりも「公益の福利」を優先的に気づかう一定数の人が必要である。「オレの取り分」をうるさく言い立てることよりも、「みんながフェアに分配に与れる」ことを気づかう人が必要である。私はそれを「公民」と呼びたいと思う。
私たちの社会はそのような意味での「公民」の育成に過去30年ほど、ほとんど関心を示さなかった。むろん教科書的な公民道徳は教えられてはいたが、国が求めた「公民」は上位者に卑屈に服従し、社会の規範に無批判に同意する「イエスマン」とほぼ同義のものであった。そのようなものは地殻変動的な危機においては何の役にも立たないということは改めてアナウンスされなければならない。
公民とは「私がこの共同体を守らなければ、誰が守るのか」というふうに考えられる人間のことである。自分自身の今における「公民的義務」が何かを、自分の言葉で当たり、自分の身体で担うことのできる人のことである。上位者の指示を待ったり、下位者に指図したりする人間のことではない。まず自分の身銭を切るところから始める人のことである。
と、以上が内田樹氏の持論の抜粋ですが、私はこれを読んだとき、これからの社会づくりまちづくりと市民生活にとって重大な示唆ではないかと感じました。
いま現実生活の中で「公民」という言葉自体もほとんど聞かなくなり、その意味を考えることもほとんどなくなっているように思います。
高萩市のこれからの市政経営にとっても、市民の「公民意識」の有るや無しやは大きな分水嶺になりはしまいかと思われてなりません。
公民意識は災害時の協力や支え合い助け合い、社会福祉の理解、納税意識等の保持につながるものと思いますし、市民の主体的まちづくりの推進力になるに違いありません。
納税について言えば、理想的には、税金滞納者への督促や差し押さえの前に、公民意識を養うことが先であるはずです。以上のことから市民に対する公民意識について、所見を伺うとともに、教育現場での教育の現状と課題を伺います。
2点目は常会のあり方と新しいコミュニティについて伺います。
震災時、地域のつながりが本当に大事であると痛感したわけですが、従来からある常会も見直さなければという意識が湧いています。
市内の常会の現状はかなり厳しい状況ではないでしょうか。
核家族化や冠婚葬祭の業者任せ、通信網の発達など社会変化の中で常会の役割そのものも薄らいでいます。常会未加入や離脱は後を絶たず、高齢化が進み、役員が成り立たないなどの問題もあります。
現在常会費は社協や赤十字や消防団への寄付と、地域防犯灯の電気料に充てられていますが、常会未加入の世帯との公平性はどうなのか、今後常会が崩壊したらそうしたお金をどうするかなど、大きな課題であります。きっと他にもいろいろな問題があるように思います。
来年度予算にはこれからの地域コミュニティ活性化事業経費が計上されています。市長執行部の何とかしなければいけないという気概は感じます。
私は思いますが、今求められているコミュニティとは、どういうものなのでしょうか。それは地域の特性や住まい構成とか、住居形態とか、まちなみとか、ライフスタイルとか、多種多様の世帯間をどうゆうふうにつなげられるのか。先ず言えることは、コミュニティの形を一様には考えられないということです。
例えば、今の常会が満足できるものであるところは、そのままでいいでしょう。計画中の地域防災組織を核として形成するのもあるでしょうし、昔の隣組やポケット近隣のように、ごく身近の範囲で組織するのが実用的な場合もあるでしょう。ちなみに今現実的に全世帯がもれなく関わっている集合体は、各ゴミステーションを使用している集まりではないでしょうか。
また平面的な構成に限らず、地域を越えた趣味の仲間やPTAとか別組織の活用も考えられます。
それから佐賀県武雄市の取り組みのように、インターネット上のツイッターやフェイスブックを利活用してのコミュニティも大きな可能性を感じます。
先ほど紹介しました内田樹氏は、同じ文章の中でこういうことを書いてます。
以下引用します。
さまざまなタイプの、さまざまなサイズの基礎的共同体がボトムアップで下から積み上げられ、それがそのつどの課題に即してアドホック(特定の目的のため)に、ゆるやかに連合するという有機的な組織体にシステムを再編成してゆくことに、私たちは未来への活路を見出す他ないだろうと私は思っている。
集団のメンバーたちは、一つのだけでなく複数の集団に同時に属している。そうでなければ集団間の連携ということはできない。親族、地域共同体、業務職能の集団、政治結社、宗教組織などなど、人は同時に三つも四つもの組織に属している。それぞれの集団ごとに社会的機能を異にしている。果実の大きさや熟成が微妙に異なる葡萄の房のように、クラスター(房)状の集団がいくつもつながり、重なり合いながら、日本という国民国家を緩やかに形成してゆく姿…と。
この内田樹氏の識見は大きなヒントにならないでしょうか。
もう少し掘り下げたいと思います。
これからの地域コミュニティに何を期待し求めるのか。その目的は何なのかによってコミュニティの形態を画くこともできると思います。逆にコミュニティの形態を先に造ることによって、新しい価値が生まれるかも知れません。
コミュニティについて考えると次から次へといろんなイメージが湧出してきます。やはり人間は一人では生きられないものとして認識し納得すると同時に、コミュニティについて考えることは悩ましい中に楽しさもあるということも感じます。コミュニティというのは人間の生きてゆく術なんだなとつくづく思います。
最後にこれからのコミュニティについて提案したいのですが、抽象的ではありますが形にとらわれず柔軟に取り組んでいくのがいいと、それがいいと思います。
答弁しにくいかもしれませんが、見解を伺います。